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このページでは、ナム・ギウンさんによるアジア最大の劇場街「大学路(テハンノ)」についての文章を掲載いたします。
大学路(テハンノ)1 

若者の街、ロマンの街、恋人たちの街、大学の街、文化の街、演劇の街、芸術の街、歩いてみたい街……これらはすべて大学路を称する言葉だ。大学路はなぜ大学路なのだろう?大学が多いから?大学生が大勢集まる場所だから?
386世代(世代区分。60年代生まれ、80年代に大学に通った30代。しかし、彼らも今は40代になっている)なら、大学路の大通りで民主化を叫び、椀につがれたマッコルリ(どぶろく)1杯を肴に国家と民族の未来を憂いたおぼろげな記憶が残っているだろう。それ以降の世代なら、大学路でコンパにも参加し、演劇も見て、きりりと冷えたビール1杯をぐいと飲み干した思い出があるに違いない。
国語辞典で〈大学路〉はどのように説明されているだろう? 大学路:[名詞]〈地名〉ソウルにある文化芸術の通り。恵化洞から梨花洞に至る長さ1200mの通りで、各種文化的な催し物が開かれる、となっている。でも、地名はどうして大学路なのだろうか?大学路がなぜ大学路なのかを知るために、今から約600年前の朝鮮開国の頃に時間をさかのぼってみよう。

文化と自由の通り〈崇教坊(スンギョバン)〉

 朝鮮王朝の開国にともない、朝鮮の都は漢陽(ハニャン、ソウルの古称)に移された。この遷都によって新しい首都の東、いわば日の出とともにまず初めに日の差す静かな丘に万年大計の教えと学びの地を作ろうと、太祖7年(1398年)、現在の国立大学格にあたる朝鮮時代最高の教育機関〈成均館(ソンギュングァン)〉を設置し、その周辺となる現在の明倫洞と恵化洞一帯を〈教え、高く〉という意味で〈崇教坊〉と名づけた。成均館から鍾路に向う路傍の地名にいずれも忠、孝、仁、義、礼、智、信の字を使って、仁義洞、礼智洞、忠信洞、孝悌洞のような名前をつけ、成均館に至る通り全体から学問の香りが匂いたつようにした。この地名からも太祖(朝鮮王朝初代王、1335-1408)が教育と人材育成にどれだけ力を入れていたかがうかがえる。
 その後、日帝強占期(1910-1945)に、崇教坊の東という意味で東崇洞と行政区域が改名された。愛国之士たちは教育の必要性を痛感し、1920年以降、朝鮮教育会を組織して大学設立を計画するとともに日本の認可を受けようとしたが、この志は叶わぬ夢となった。その代わり、朝鮮総督府は朝鮮教育令を改定し、大学を設立できる制度的な枠組みを準備した。1924年、京城帝国大学管制を交付し、京城帝国大学を東崇洞と蓮建洞の約9万坪の敷地に造成した。京城帝国大学が東崇洞に作られたのは、都心から離れた静かな環境と駱山という自然環境を備えていたこともあるが、1916年に京城工業専門学校に昇格した工業伝習所(現在の韓国放送大学校本館)と大韓医院(現在のソウル大学病院)、付属医学校(現在のソウル大学校医科大学)などの教育施設がすでに数多くあったためである。
 解放後(1945年以降)の1946年8月、京城帝国大学は国立総合大学案が確定・交付されたのにともない、国立ソウル大学として正式に発足した。国立ソウル大学は、1975年の冠岳キャンパス移転前まで、大学本館(現在の韓国文化芸術委員会本館)をはじめ、物理化学大学と法科大学(現在のマロニエ公園とアルコ美術館一帯)、医科大学(現在のソウル大学病院)が大学路にあり、その当時から大学生と若者が訪れる若さとロマンの街と呼ばれるようになった。当時は大学路を物理大通りと呼び、通りには小さな川が流れていた。ソウル大学の学生たちはその川をセーヌ河と呼んでいたそうだ。若さと哲学、そしてセーヌ河が流れる物理大通りは、その後、地下鉄工事と道路拡張により河は埋められ、現在6車線道路と地下鉄が当時の思い出を乗せて走っている。
また、4・19革命(1960年の学生による反政府闘争)と維新反対運動も物理通りの大学路が中心となった。昔、朝鮮時代の儒者たちが不義に耐えられず怒りをぶつけた通りは、現代になって自由と民主化を叫ぶ学生運動の地となったのだ。学問と自由を守った若者の精神は、崇教坊から大学路へと脈々と受け継がれ、これが今日も大学路を守る力になっているのではないだろうか。
 1975年、ソウル大学校が冠岳キャンパスに移された跡地に公園が造成された。京城帝国大学時代に植えられたマロニエの木が多く、1976年3月、この公園をマロニエ公園と命名し、今も大学路のシンボルになっている。また、京城帝国大学本館からソウル大学校本館として使用されてきた建物は、同年10月、韓国文化芸術振興院(現在の韓国文化芸術委員会)本館として今も使用されており、1979年10月にはマロニエ公園内に文芸振興院マロニエ美術館を、1981年4月には文芸振興院芸術劇場をそれぞれ開館し、若さとロマンの通りから文化芸術の通りへとその姿を変える契機となった。

文化芸術の街〈大学路〉

韓国文化芸術振興院が置かれ、マロニエ公園を中心として小劇場、美術館など、多様な文化スペースが続々と大学路に集まりはじめた。韓国現代建築の両頭、建築家の故キム・スグン(オリンピックメインスタジアム設計)は、マロニエ美術館(現在のアルコ美術館、1979年)と文芸振興院芸術劇場(現在のアルコ芸術劇場、1981年)をはじめ、恵化駅2番出口前に位置するセムト社屋(1979年)、放送大学校の向かいにある韓国国際協力団(旧海外開発公社、1979年)本館を設計するなど、大学路を文化の通りにするために積極的に参与し、街の雰囲気をリードした。その後、しばらくの間はキム・スグン式の赤レンガの建築物が大学路の主流となり、大学路は名実ともに文化の通りとなった。
1985年5月5日、梨花交差点から恵化ロータリーに至る幅60m・長さ1.2kmの6車線区間を文化芸術の通りに作り変え、その通りに〈大学路〉と名前がつけられた。そして、週末は車輌進入禁止の歩行者天国となった。崇教坊から物理大通り、東崇洞から文化芸術の通りに変わった大学路は、ソウルのみならず韓国の文化芸術を代表する通りとなったが、大学路が文化芸術の街に指定された背景には残念なことに政治的状況があったことも忘れてはならない。
当時、クーデターを起して政権を手にしたチョン・ドファン政権は、軍事政権というイメージを払拭するために一連の文化的処置をほどこした。その代表的なものが制服自由化と頭髪自由、夜間通行禁止の解除、ヨイドでの風俗祝祭、海外旅行の自由化、プロ野球、そしてまさに大学路の週末祝祭通りの造成だった。しかし、たとえ政権のイメージ払拭のためだったとはいえ、この時から大学路は祝祭の街、文化の街、自由空間という独自のアイデンティティをもちはじめた。
この頃から大学路には、セムトパランセ小劇場とマロニエ劇場をはじめ、パタンゴル小劇場、星座小劇場、演友小劇場、大学路劇場など、10劇場あまりの小劇場が開館し、演劇クラスターを形成しはじめた。また、週末の車輌通行禁止によって若い芸術家たちはもちろん、アマチュア公演など、多様なストリートパフォーマンスが登場し、大学路を若さとロマン、そして芸術の街へと作り上げていった。
しかし、大学路は再び政治的に巻き込まれる。1987年の6・1民主闘争時、大学路は護憲撤廃と民主主義を叫ぶ正義と自由を代表する通りとなったのだ。だが、このような正義と自由はいつの間にか消え去り、大学路は集団利己主義によるデモの通り、脱線の通り、享楽の通りに変質しはじめ、1989年には車輌通行禁止が廃止されるという消したくとも消し去れない汚点を残した。

小劇場密集地域、そして文化の街としての新しいスタート

 1990年代に入り、政治運動の衰退、グローバル化、都市環境改善事業にあわせるように、大学路にも変化の風が吹きはじめた。〈21世紀は文化の世紀〉というスローガンの下、文化に対する認識は変化し、大学路を変える大きな役割をはたした。特に1991年の〈演劇映画の年〉を基点に、小劇場と文化芸術団体が増加し、商業公演も登場するなど、多様な変化の中で今の大学路の姿を作り上げる基盤ができはじめた。
その後、国全体が揺れたIMF(国際通貨基金)を迎え、大学路も例外ではなく困難な日々をおくることになる。全国民が気を引き締めて消費を押さえ、お金を使うにしても最小の消費にとどめるという状況の中で、文化費の支出が減少するのは当然のことだった。ゆえに文化の街である大学路はIMFのもっとも大きな影響を受け、ひどく停滞した。
文化の世紀・21世紀に入り、大学路に再び変化の風が吹きはじめる。この風は過去とは異なり、台風ともいえる威力的な変化の風だった。文化産業が興る中で吹き荒れる新しくも強い風だ。昔の大学路が純粋さとロマンだったなら、新しい大学路は経済性と多様性といってもいいだろう。大学路ではさらに多くの小劇場が誕生し、多様なジャンルの公演が連日おこなわれている。何よりも文化産業の代表格ともいえるミュージカルが大学路に進出し、小劇場ミュージカル旋風を巻き起こした。演劇もやはり正統から商業演劇への道を歩みはじめた。文化をひとつの産業と認識し、経済論理でアプローチすることは必ずしも悪いとはいえない。しかし、文化の街・大学路のアイデンティティが文化産業という美名の下で商業化していく激しい風は多少残念でもある。
この風とは反対に、同徳女子大学を筆頭に祥明大学、中央大学、又石大学、青雲大学など、各大学の芸術学科がその巣を大学路に移し、大学路の商業化とはまた別の風を生み出している。昔、崇教坊から始まった学問の街は、今文化と出会い、芸術と学問が共存する大学路の未来を構築しているのだ。

ソウル市文化地区〈大学路〉

 2004年5月8日、大学路が仁寺洞につづきソウル市の2番目の文化地区に指定され、名実ともに文化の街となった。文化地区とは、〈文化施設が密集してたり、これを計画的に造成しようとする地域、文化芸術に関連する催し物、祝祭など、文化芸術活動が持続的におこなわれる地域〉をいう。大学路が文化地区になったのは、アルコ芸術劇場をはじめ80あまりの公演施設と鍵博物館、ロボット博物館、わら工芸生活博物館など3つの博物館、アルコ美術館、ギャラリーチョンミソ、木金土ギャラリーなどの美術館、ハイパーテックナダとマルチプレックスファンタジウム7などの映画館など、多様な文化スペースが観客のために準備されており、また大学路だけの貴重な文化財がエリア内にあるからだ。マロニエ公園を中心に旧ソウル大学校本館(史跡大278号)と旧工業伝習所本館(史跡代279号)、韓国の初代大統領イ・スンマン大統領が暮らし、今は記念館になっている梨花荘(ソウル市記念物第6号)、ポプラとマロニエに囲まれたマロニエ公園、大学路を懐深く抱く駱山公園、千店を越える多様な食文化、有名ブランドをはじめ個性的なブティックに至るファッション文化と、多様な文化が共存している。大学路こそ公演文化のメッカとして多彩な文化を代表する文化地区であり、特区として真の意味で私たちの人生を豊かにしてくれている。
 大学路が文化地区に指定されてから、エリア内に彫刻が並び、インスタレーションアートで通りが造成されなどの外的な変化が起きたものの、文化地区としての内実はまだ不十分なのが実際のところだ。大学路の通りは文化イベントよりデモや集会が、自立経済的な商業化より目の前の商業化が、文化地区としての姿を備える文化スペースより上辺だけ華やかなスペースが優先されている現状だが、筆者は希望を持っている。文化と産業(商業)が共存すればこそ大学路は真の文化地区として成長することができる。花より団子という言葉があるが、芸術だけでは大学路は維持することはできない。美味しい食事も楽しみ、おしゃれなカフェでお茶も飲み、公園で自由を感じ、劇場や美術館で芸術観賞ができる環境でなければならない。
朝鮮時代の儒者たちも、近代の若者たちも、今日の私たちも、大学路が自分たちの街であり、若さとロマンと自由、文化と芸術、思い出の街であると思っている。大学路の中にあるものはすべて私たちのものであり、私たちには楽しむ権利がある。ゆえに大学路は大切な私たちの財産だ。
次号では、大学路に秘められている大切な私たちの宝石をひとつひとつ探し出し、読者の心の宝石箱に収めてもらおう。心の宝石箱を開けて、大学路で大切な思い出を作ってみるのはどうだろう。(つづく)

ソウル文化財団機関紙2007年7月号
(ナム・ギウン、ソウル演劇協会事務局長)